2018年11月17日

花の名前も知らないけれど。

◾️午後。
14時から16時までの2時間、部屋の中に射す光が他の季節のその時間帯よりも優しく感じるのは気のせいか。
特に最近は余計にそう思うようになってきた。ただ、差し込む光を見たり、無軌道に揺れるカーテンを眺めたり、家の前を駆け抜けていく知らない人の話し声に耳をすまして追ってみたり、本当に「ただそうする」ことが増えた。そして、ただそうしていることが「あぁ、シアワセね、永遠ね」と一瞬だけ思うことも増えた。噛みしめるとか、思いを馳せるなどという類では一切なく、本当に一瞬だけ。そう思う一瞬の間は自分の在る世界も居場所も無音になる。




◾️死ぬことを珍しく1日中考えていた。
死にたいということではなく、死ぬってどういうことなのかということ。
小さい頃、多分、3歳か4歳だと思うのだが、毎晩布団に入って手をあわせてこう唱えていた。
「明日私が死んで、もう一度生まれ変わってもお母さんから生まれてきて、おじいちゃんおばあちゃんも今とおんなじで関わる人間も皆おんなじ人で全部おんなじにしてください!」
かなり真剣に何かに向かって手をあわせていた。今思うとどういうことなのかと思う。死んでもやりなおせるものなのだと思っていた。
死ぬということを怖いとか、恐ろしいとか思ったことが今まで一度もない。そんなことを人に言うと「嘘だよそんなの。死んだこともないのに」とか「あんたみたいな人がいざ死ぬときになって”いやだ!死にたくない!”とか言うんだよ」と言われる。もしかしたらそうかもしれない。
でも、死んだことがないからわからない。自分の人生の中で死にかけたことが2度あるがその時も朦朧とする意識のなかで「あぁ、もう一回やり直せばいいんだよ」と本気で、心から本当にそう思っていた。もっと正直に言うと「あぁ、やっと終わる」と思っていた。
やっと終わると思いながらもう一度やりなおせばいいと思っているこの矛盾がなんなのか自分でも不思議だ。
死ぬことよりも怖いことがある。
病気で動けなくなっていくおじさんの身体を見たとき、私のことが誰だかわからなくなって痩せ細っていくおじいちゃんを見たとき、昨日は「明日また連絡する、近いうち飲み行こう」と電話をした翌日に自ら突発的に命を絶った友人の心の中。
生きている時間の中で、目には映らないものや見えない部分が自分の強い意識や意思とは無関係に、死というものに向かって進んでいってしまう全ての現象に対しとにかく怖いと思っている。怖いというより恐怖さえ感じる。この気持ちはもしかしたら「死にたくない」に繋がる気持ちなのかもしれないが、生きたままに少しずつむしり取られたり、疲弊していくことに立ち向かえるだけのエネルギーが自分の中から生まれる気配が一切しなくなったとき、それを理屈でなく自分でわかった(悟った)とき、私はどうするのだろうかと考えていた。死ぬことより、生きているうちに死を意識するしかないその時間を自分が迎えることのほうが、怖い。




◾️体調が怠く一日中映画を見て過ごす。
鶴橋康夫監督『後妻業の女』アシフ・カパディア監督『AMY エイミー』河瀬直美監督『あん』
河瀬監督以外の作品はなんとなく観はじめてしまったというのが正しい。
死ぬことがどういうことかを考えていた数日後にこの3本を一気に観た。3つの作品の感想をひとつずつ書きたいくらい(気が向いたら書きます)
どれも素晴らしかった。観終わって、ただ歩きたくなったので散歩に出た。歩きながら普段自分が考えていることや、ふと考えた死ぬということ。これは生きているから考えることで、その「生きている」ということを大きな風呂敷に例えて考えていた。
ふと、大きな風呂敷が包むものは「なにもない」ということだと思った。大きな風呂敷はなにも包まない。いや、包むのだけれど、中身はなにもない。ただ「在った という ないもの」を包むだけ。なんで、そう思ったのか。そう思うと死ぬことはやっぱり怖いと思わない。生きている時間の方がよっぽど怖い。堂々巡りだ。

家に戻る途中、四方八方に咲き乱れていたとある花が綺麗さっぱりなくなっていた。
とても綺麗な花だったので、名前を調べようとしている矢先のことだった。写真を撮っておけばよかったと後悔した。
でも、確かにここに咲き乱れていたのだという事実は私が知っている。名前はわからないが憶えている。
それで充分じゃないかと思い直した。



▶︎明日は高円寺小杉湯で歌います。お昼13時から。
ずっとうたっている歌でも、その日だけの歌でしかないと思う。
そう思うようになって、歌うこと自体が昔よりももっとずっと楽しい。



posted by 見汐麻衣 at 23:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月14日

些細なこと2。


◾️贔屓にしている定食屋が家の近所に3軒程あり、ローテーションで通っている。
そのうち1軒の店でひと月ほど前からよく会う盲目の男性がいる。サラリーマンだろうか、いつも背広姿だ。
ひとりで店に来て、店主も「あら、いらっしゃい」と、あたりまえの習慣のようにその男性の腕をひき、椅子まで誘導し、メニューを読み上げる。男性は定食が運ばれてくると黙々と食べて、帰り際必ず店主の奥さんと談笑し、帰っていく。

ある日。
ランチも終わる時間帯に急いで入ったイタリア料理の店で食事をしていると、「こちらへどうそ」と案内され私の隣に座った男性が定食屋でよく会う盲目のひとだった。ホールスタッフの男性は、定食屋の主人と同様にメニューを読み上げ、注文を受けていた。
なんてことはない昼時によく会う人というだけなのだが、この日は違った。
彼のテーブルに出されたスープが手元より少し遠くに置かれ、手をゆっくり這わせてカップを探しているがなかなか掴めないでいたので、私は彼の手を掴み「ここです」とスープの入ったカップの取手に手をやった。
少し驚かれたようだったが「ありがとうございます」とひとこと。そして「あの、違ったらすいません。いつも〇〇の定食屋で会ってる方ですか?」と言われた。私は何故か一瞬驚いてしまい言葉に詰まって黙ってしまった。「きっと、そうですね、よく会いますね」と言われ「あの...なんでわかるんですか?」と不躾な質問を投げていた。
「声です」「...声?」「はい」
ひとりで行く定食屋で誰かと話すことなどもちろんない。いつ私の声を聞いたのかと思っていると
「ごちそうさまでした〜って、大きな声でいつも聞こえます。あの声と同じです」
そういえば、確かに言っている。会計を済ませたあと特に意識することなく言っているなと考えていたら
「なんか、すいません...」とひとこと。
「なんであやまるんですか?」「いや、気持ち悪かったかなと思いまして」「そんなことないです、あの、どうぞ、ゆっくり食べてください。私はお先に失礼します」「あぁ、ありがとうございました」
会計をすませて「ご...」と言いかけ、小さい声で「ごちそうさまです」と言い直し店を出た。

しばらくして、定食屋で彼を見かけた。
「こんにちは」と言うと「あぁ!先日はありがとうございました」から始まり、少しだけ話をした。
「通い慣れた店でも、最初というのはあるわけで、その時は緊張しませんか?」と言うと彼は笑っていた。
「面白いこと聞きますね。...でも、どの店でも最初は家族と来ることが多いから。ひとりでということはないんです。家族と一緒にきて、食事をしてここならひとりでもこれるなって思った店に通っています」「ここはひとりじゃ無理だなってお店もあるってことですか?」「はい」「どんな理由で?」「声ですね」「...声?」「そう、声。声っていうのはよく聞くとその人の全てが聞こえてきます。お店の主人と家族が話していて、その声が気持ちいいなと思うと、通っています」「そんなこと、あるんですね」「そんなことあるんですよ笑」「あの、私の声はどうですか?」「え?」「え?」「え?」「あぁ、えーっと、私の声は気持ちいいですか?」「明朗活発という感じがします笑」「明朗活発!」「話す仕事などやっいるんですか?」「違います。あぁでも、まぁ、近いようなことはやっています」「そうですか。声がお若いから声を使う仕事なのかと」「年は若くないです」「それは、聞いていません笑」

よく笑う方で、話してみるととても楽しかった。
それ以降定食屋で彼を見かけたら談笑しているのだが、何処に住んでいるのかも、なんの仕事をしているのかも、名前も年も知らない。相手も私の名前、仕事も年も聞いてこない。
ただ「定食屋で会うひと」それだけだ。
ほんの2,30分、会えた時に世間話をすることがとても楽しい。そして、なによりも贅沢な時間だなと思う。

彼と話すようになってからは会計時、
この頃はどの店でも意識して「ごちそうさまでした〜!」と大きな声で言うようにしている。

posted by 見汐麻衣 at 14:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月12日

些細なこと。


◾️荻窪にある某レコ屋、週2は覗くようにしている。
今週は200円コーナーで見つけた八神純子と、ユーミンの『ALBUM』(1977)を購入。
見つけた時「おっ!」と声を出してしまった。本人が「自分のキャリアの中で汚点」と言っているのを何かで目にして、これは欲しい...と探していたが中々出会えなかったので嬉しい。しかも安かった。荒井由実時代と松任谷由実時代のシングル盤のベスト的なものなのですが、全くやる気のないジャケが今手にするとダサすぎて潔く、いい。はなから売る気のない使用というか。多分、本人は本当に出したくなかったのだろうという思いがひしひしと伝わってくる。
しかし、曲に罪はない。『遠い旅路』『潮風にちぎれて』はとてもいい。80年代に入ってブイブイいわせる前のユーミンの曲がとかく好きなのですが(地味で渋い曲が多いから)この、少し淀みを感じ、(自分が何をうたうべきか作ろうとしているのか)考え模索しながら作っているように感じて好きです。ここを経てブイブイいわせた曲達に繋がるのかと思うと余計に。ラフに聴こえて実は凄く凝っているって、簡単なようで難しい。


◾️先週末、大阪でライブがあり、移動中にラジオをずっと聴いていた。
某番組のゲストに矢野顕子が出演していて話の中で「たかが歌詞じゃな〜い?別に、私はね、(他の人にうたってもらうとき、その人が歌いにくいのなら)歌詞を書き換えてもらってもぜ〜んぜん平気」と言っていて少しだけ驚いた。例えば歌詞の中の接続詞を変える("だけど" を "だけども" とか)くらいならうたう人の拍のとりかたや、うたいまわしによるところもあるだろうしまぁわからんでもないとおもったが、矢野さんの言ってるのはそういう部分ではなく本当に「歌詞を変えていい」というようなニュアンスで話していたので驚いた。例えば「ごはんができたよって母さんの〜」を「お餅をついたよって母さんの〜」になると、意味、全然変わるんじゃないか...と思ったが、そんなことで大きく意味が変わるようなヤワな歌詞を書いていないってことにも後で気づいた。たかが歌詞と言いながら、自分の作品に対する強固な自信を感じました。二、三日遅れて唸る。


◾️「歩いていて、異様に靴紐が解ける日」というのがある。
私の歩き方がいつもと違うのか、紐の摩擦なのか知らないが、一見「意味のないこと」にも意味があるように思えてしまうことがある。
実際、意味などない。ただ、靴紐が解けやすいという事実だけがあり、解けないように結べばいいだけのことなのだが、意味を持たせようとするといくつか心当たりが出てくるから不思議だ。今向かっている場所や待っている人と会うことにあまり気乗りがしない時によくあるな...など。そうすると靴紐の「解け」によって、立ち止まる時に「もう一度よく考えたまえ」と何かが私に言っているのではないか...などと大袈裟でドラマチックな考えに行き着こうとするのを自ら拒んだあと、ふと思うのは靴紐が解けやすいという事象に、自分の「心構え」を見て取れることもあるのだということだったりする。疑問を持つこともしない毎日の習慣や所作の中に、心の軋みは真っ先にでてくるものなのだろうと思っている。普段の自分の無意識の行動から、わたしが気づいていないことを教えてもらうことがある。
posted by 見汐麻衣 at 20:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月28日

寿司酩酊雑記


酔っています。

今夜の東高円寺のU.F.O CLUB、頭士奈生樹 with 渚にてのライブへ行きました。
13年ぶりのアルバム「W」発売記念ライブ。

今月、個人的に反省すべきことが色々あり、「あぁ、もう全部やめてしまいたい」なんてことを真面目に、真剣に考えたり、しかし
現実には矛盾の多い自分の行動が常、まぁ何が言いたいのかというと「ツライです...」ということですが、そんなことは他人の知ったこっちゃない。自業自得。

今夜のライブがとても素晴らしく、あまりに素晴らしく、素晴らしいしか言ってませんね。
......行ってよかった。具体的なことを書きたいのですが、酔っているのですいません...。でも、何か書き留めておきたかったのです。

また改めて書こうと思います。
明日の下北沢leteのソロワンマンは、今できること正直にやろうと思います。お待ちしております。
乱文御免。



posted by 見汐麻衣 at 01:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする