2016年03月14日

画にもかけない。

中川一政を知ったのは高校生の頃。向田邦子の本の装丁かなにかだった。
また、向田氏本人が中川一政の「もうわれはだめだと思う時もある。やってゆこうと勇む日もある。」と讃をした画の前でマミオ(猫)と戯れて映っている写真を見てからその画が気になり、中川氏の本を購入するため本屋に走った。

今、『画にもかけない』(講談社)を久しぶりに読み返している。
17,8の頃にグゥときた内容に36になった今でも同じようにグゥゥゥときてしまう。当時から変わらないままに在り続ける不安定な心模様に、あの頃と同じ鮮度を落とす事なく真っすぐに響いてくる言葉というのは〈何〉でできているのだろうかと考える。

NHK教育テレビ「こころの時代」で放映されたものを書きおこししたサイトをみつけ読む。
おのれを無にして知る美しさ
日本画家、小泉淳作氏の話を読みながら何故かふと、「運鈍根」(意味:物事を成し遂げるには、幸運と鈍重と根気の三つが必要みたいな事だった筈。 )という言葉が浮んで、そんな言葉どこで知ったのか、それを今度は思い出そうとして頭痛に変わる。自分の想いや考えに従うことをためらって、疑ってを繰り返しているうちに人生終わってしまうものなのだ、いいや、そうではない!自分の想いに従って、戸惑わずにやるだけなのよと、どっちつかずでいつもこのふたつの想いの中を行き来しているうちにうかうか三十きょろきょろ四十、やっぱり人生あっというまじゃないか!と頭痛が増す。ただ、こういう気持ちの往来の中でしか生まれない「美しさ」もあると思っていて、それは記しておく必要がない人にとっては本当にどうでもいいものかもしれないが、私にとってはいっけん無駄に見えるこの感情のきれっぱしから瑞々しい点が打てることもあると信じてそれにすがってばかりいるのもどうかと思うのだが、中川氏の本を読みながら毎回このような有り様の自分をなんとか肯定させてくれるので時々は読み返すようにしています。
かけないものをかこうとするその行為の過程で人生終わるとわかっていても、やめられないものってあるんだよな。


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2016年05月23日

アル中ハイマー

と、いう造語を作ったのは山田風太郎氏だったと思う。
気になって、山田氏の随筆「あと千回の晩飯」(朝日文庫)を読む。
やはり、そうだった。アル中ハイマー。最近お酒を呑みながらふとこの言葉が浮かぶ。そして一人で苦笑してしまいます。

本を読み直していて、下記の文章に掴まる。
「(前略)自分と他者の差は一歩だ。しかし人間は永遠に他者になることはできない。自分と死者との差は千歩だ。しかし人間は今の今、死者になることができる。」
「私に〈あの世〉への親近感などない。それはないがこの世への〈違和感〉ならある。いわゆる厭世観(ペシミズム)というやつか。ただし、ほんのちょっぴりとだが。ほんのちょっぴりだが、この深層心理が私に平然と煙草をのませ、大酒を呑ませる原動力となっているようだ。」
著者は自分のことを「意識の底にいつも死が沈殿しているのを感じている人間だ」と、書いている。
何の外因がなくとも、生よりも死に憧憬を強く抱く人間がいるんだということは、今ならなんとなくでしかないがわかる。そういう気配を漂わせている人というのは確かにいる。そういう人と話していると、この世を浮子のようにプカプカと浮くことはせず、流されることもせず、常人には大抵理解できない思考でものごとを見て、感じている気がする。それはきっとものすごい労力なんじゃないかと思う。身体を使う労力とは異なる、考える労力。
「なんであの人が......」と皆が驚くような人が自死を選択するのをニュースや身近でもいくつか聞いてきた。
きっと常人にはわからないものなのだと思う。悲観などではなく厭世観によってそれを選んだ人の思考や気持ちなど、理解してもらいづらいだろうし、理解するなどという類いのものではないとも思う。思うのだが、個人的にはこの世に絶対的な絶望だけを感じとってしまっても、死にきれないという人の方が愛しいと思ってしまう。可能性や希望なんていうまやかしの言葉はもう信じてもいないけれど、地獄は地獄と腹を据えて仕方なくでも生きている人の方が愛おしくないですか。
そして私ときたら悪趣味かもしれませんが、そういう人に憧憬を抱いてしまいます。






posted by 見汐麻衣 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月31日

ある日。


「ある日」

ある日
会社をさぼった
あんまり天気が
よかったので

公園で
半日過ごして
午後は
映画をみた
つまり人間らしくだな
生きたいんだよ僕は
なんて

おっさんが喋っていた
俳優なのだおっさんは
芸術家かもしれないのだおっさんは

ぼくにも かなしいものが すこしあって
それを女のなかにいれてしばらく
じっとしていたい


辻征夫さんの詩。

夕方、電車の中、座席に座り読む。
不意に泣けてきたものだから座って俯いていると涙が垂れてしまう。サッと座席を立ち、吊り広告を見るふりをしながら流れそうになる涙をとめる。
「不意をつかれる」ということが時々ある。
ぼんやりしているときにそれはよくある。
なんとなし、開いたページや、ふいに目にした看板の文字。
街にある落書き、電柱や標識に貼られたステッカーの中の短い言葉。
偶然か、思い込みか、「今」の全てを肯定してくれるようなものが多い。

一年前の今頃、近所の蕎麦屋で昼食をとっていた。
新聞を開いて最初に目に飛び込んできた言葉。
「感性にまっすぐ届く作品群はひとつ誤ると退廃に転ぶ」
この日、ブツブツと念仏を唱えるようにこの言葉を口にしながら
どういうことなのか、ずっと考えるいちにちがありました。





posted by 見汐麻衣 at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

反省。

誕生日でした。
見汐家では誕生日を祝うというような習慣が全くなかったので、(正月以外はなにもなかった)
大人になってから友人や知人に祝いの連絡や、メールを頂くと本当にバカみたいに嬉しく、はしゃいでしまうところがあり、大人げないです。でも、こんなに嬉しいものなのだなと大人になってから痛感しております。
ただ、「言わなくていいことを口にする、ひと言多い」部分が最近やけに顔を出す機会が多く、自ら愚か者であることを宣言しているようなものでして、ダサい。
大切な人達や尊敬している人達に対してどうも減らず口をたたくところがあり、そういった幼稚な部分を叱ってくれる人や、相手にしてくれている、心の大きな人達に対してもう少し節操ある態度で、接していけるように在れたらと今日は朝から反省ばかりしていました。

本当に不束者ですが、この一年もみなさま、宜しくお願い致します。



posted by 見汐麻衣 at 13:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする