2016年01月05日

わからないこと。

鷲田清一著書「ことばの顔」(中公文庫)読み返す。

『(前略)暗中模索という言葉がある。五里霧中という言葉もある。そんな中で、どうしても言葉にならないような感情に浸されると、ひとはまるで唸りごえをあげるかのように「ムカつく」や「しんどい」といった言葉を口にするのだろう。どんな語でもいいのだ。唸りになれば。(後略)』

『わからないことの存在に気付くということ。そこからこそ本当の『わかる』といういとなみが始まるのではないだろうか。偶然がかさなり、見通しもちゃんとつかないままに、なんらかの決定をしなければいけないというのは政治的思考のツネである。』

『生きるうえで大切なことは、わからないものにかこまれたとき、どう処するかの智恵であろう。』

鷲田氏の本は定期的に読み返しています。
自分のやろうとしていることは「曖昧なことを割り切るのではなく、曖昧なままに正確に表現すること」だと思っている。ただ、「生きていくこと」に付随する全てのものごとをその考えで押し通すのは難しい。
なぜなら……の後の言葉がまだみつからない。説明できない。
難しいと気付いたその先が一番肝心な部分だとわかっている。でも、まだわからない。説明できないことを説明できるようになるまでは話さなければいいと思うようになった。私はおしゃべりがすぎる。
時間を使えば知れること。それは時間の長さではなく、時間の深いところまでどれくらいいけるのか。時間を掘る作業はいつも「ひとりきり」であることが条件だとおもう。「わからないこと」をみつけるときも自力でないと意味がない。
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2016年02月22日

消えてゆくもの。

歯医者の帰り、4ヶ月前まで暮らしていた町を散歩。
8年住んでいた家は新しい借り手が見つかっていた。
いつも野菜を買っていた八百屋に野菜が並んでいなかった。今月いっぱいで閉めてしまうという。
家族で営んでいた本屋が閉店していた。
空き地だった場所、以前は色んな花が咲き乱れており、花の名前は解らずとも匂いを嗅ぐたびに春夏秋冬を感じさせてくれていたのだが全てなかったかのように其処にはマンションが建設中だった。
3軒あった花屋は1軒になっていた。
煙草屋もなくなっていた。
小さな商店街でも、たった4ヶ月の間に静かに消えていくものや変わっていくものがこんなにあるのかと思う。
いつのまにか違う店になっていたりするとき、以前其処がなんだったのか思い出せないことが多々ある。
気にもとめないくらい町に馴染んでいたもの。
大きな声でおしまいを伝えることもせず気付くか気付かないかくらいの張り紙をいちまい、シャッターに貼られているのをみたとき、胸に込み上げてくるものはなんなのだろう。

暮らしていたときには気にもとめなかった感情。
週に2、3日、昼をとっていた蕎麦屋に入る。「お久しぶりですねぇ、最近いらっしゃらないんでどうしてるのかと思いましたよ。」と声をかけられた。初めてだった。

蕎麦を啜りながらこれまた味わったことのない感情が沸いてきて少し泣きそうになった。








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2016年02月23日

かなわない、たまもの。

23歳の春、神蔵美子『たまもの』(筑摩書房)を購入した。
二人の男の間で揺れ動く自分を捉えた私写真、二人の男との関係を綴っていく日記。
23歳の私は「なんてわがままで、自分勝手な人なのだろう」と読み進めるうちに腹が立って仕様がなかった。
と同時に、「なんでこんなに自分に正直に在れるのか、人様の目など怖くはないのだろうか」と、羨ましい気持ちも感じていた。年を重ねながら読み返すうちに否定的な感情はなくなり、「なんてわがままで、自分勝手でそして、強い人なのだろう、この強さはどこからくるものなのか」という疑問。自分の内包する脆さ、言わなくてもいいようなことを強く押し出せる(魅せる)こと、それを作品にできることへの憧れが増していった。

去年の冬、植本一子ちゃんから「自費で作ったの、ミシオさんよかったら。」と、『かなわない』というタイトルの本を貰った。一子ちゃんは写真家で、6,7年前に知り合ったとき、当時私がやっていたバンドのライブに来てくれたり、家に遊びにきてくれて私の写真を数枚撮ってくれた。「ミシオさんの写真、営業で使ってるの。評判いいよ〜、ありがとうございます!」と、現像した写真に一筆添えて送ってくれた。今も大切にとってある。
当時の彼女の興味のある物、人に対する好奇心の強さに少し圧倒されながらも惹かれている所があった。それ以降あまり会うこともなかったのだけれど、共通の友人が多いこともあってここ数年で顔を会わせる機会が増え、彼女は当時からすると仕事も忙しそうにみえ、子供も大きくなり幸せそうで、ハタからみていると順風満帆に見えた。見えていたからか、余計に『かなわない』を読み終えた後、「よくわからない」と思った。

人は、相手と笑顔で接するとき、その心の内でも同じように笑っているのかといえばそうではなく、人に伝えることのできない酷く、醜い感情を飼いながら笑顔にもなれるのかと、一子ちゃんの笑顔に屈託のなさだけを感じていた自分の人の内側を見る目のなさにも落ち込んだのだが、彼女が文章で綴っている内容とは異なる〈顔〉をみせていられることに驚いた。距離の近い人なら微妙な変化にもすぐに気付くものだとは思うのだが、彼女の顔は、笑顔は、会う度にひとなつっこく、最初にあった頃となにもかわらないと思っていたから。ただ、時折みせる暗い顔の理由を聴きだすような関係ではないと思ってもいたのでみてみぬ振りもしたこともあった。

『かなわない』を読みながら何故こんなに赤裸々に書けるのかと、しばらく考えていた。
自分だけのことならまだしも、相手のある出来事は相手をも巻き込むことで、その人にも少なからず影響があるのではないかと余計な老婆心が湧き、自分の生きかたを晒すことによって生きかた(未来)を得ようとするように感じ、それは自己愛を満たすためだけの行為のように思え、嫌悪感があった。「よくわからない」という思いだけが残り、わからないから何度も読み返していた。
読み返すうちに神蔵さんの『たまもの』を思い出した。
本棚からひっぱりだし、『かなわない』と『たまもの』を同時に読み進めていた。
同時に読み進めながらどちらの本も〈淋しさ〉というものに痛々しいほど真摯に向き合っているのではないかと思った。向き合うというより、淋しさを掴もうと足掻く行為。対決しようとする気持ち。
この2冊に共通して感じたもの。読みながら何故胸が苦しくなるのか、少し泣いてしまうのか、時折怒りを感じてしまうのか「わからない」と思っていた一子ちゃんの文章がぐいぐいと自分の中に入ってくるのを感じ、さもしい自分の物の捉え方を少しだけ変えてくれた。

装丁も改められ本になった『かなわない』(タバブックス)を久しぶりに読んだ。
愛することの淋しさ、男が気付かせてくれる淋しさ、家族をつくることの淋しさ、暮らしていくことの淋しさ、生きることの淋しさ。
〈淋しさ〉がなんなのか、こんなに丁寧に教えてくれる本はないと思った。
「叶わない」なのか、「敵わない」なのか、どちらの意味もあるのだろうか。
今度、きいてみよう。

本の見開きに一子ちゃんの一筆が入っている。
「愛はこういうことだよ」
こういうふうに言いきれる強さ。
清々しさを持つことができる時間を、自分の素手で掘り続けているのだろう。




















posted by 見汐麻衣 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月02日

3月。

無駄に忙しい。

時間の使い方が下手だからだと友人に言われた。
忙しいのは頭の中だけで、実際、時間ができるとダラダラしてしまう。
そしてそれを後悔する「あぁ...また今日もダラダラしてしまった」と。
昼間になると気分が落ち込み、夜になるにつれ少し元気になる。
やるべきことをメモにおこし、それでホッとしてしまうことがよくある。
実際、やるとなると腰が重い。
頭の中では猛スピードで整理整頓しようとするのに、こんがらがってなにもはっきりしない。こうなるのは毎年決まってこの時期。3月に入ると「あぁ、もう今年が終わる......」と思ってしまう。
残りの9ヶ月は3月までに決めたこと、やりだしたことに費やす時間でしかないと思って過ごすようになってもう6,7年になる。
春がはやく過ぎればいい。
posted by 見汐麻衣 at 23:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする