2015年11月29日

甘い皮。


ストッキングにはしる伝線を見るたび、説明のつかない物悲しさを覚える。
電車の座席、目線を落として座った。目の前に立っている女性の足下を見るでもなく見ていると、左足のストッキングに伝線をみつけた。稲光のようにはしっているそれを辿りながらそのまま目線を上にやると、つり革を掴んでいる女性の左手指先にいくつかのささくれを見つけた。甘皮もささくれている。そのささくれでひっかいてしまったのか、なにか金具のようなものをひっかけたのか。爪には剥げかけたマ二キュア。髪はといていない。でも顔にはしっかり化粧がほどこされてる。
女性の意識していない部分はすべてくたびれているように見え、手も足も首も綺麗な形をしていたから余計に物悲しくなってしまう。自分のことは棚にあげて書いています。



爪を噛む癖を咎められる。
小さい頃からの癖なので万年深爪なのだが、爪を綺麗に整えてマ二キュアを塗っている女性はいいなと思うのだが苦手だったりする。
ある週末、最終電車に乗りシートに座るとお尻に異物を感じ、立ち上がって確認すると誰かが落としていったのだろう、真っ赤に塗られたつけ爪があった。この「赤いマ二キュア」を見ると未だに嫌な気分になる。
随分昔の話だが、私が3歳の頃家を出ていった父の別宅に何故かひと晩預けられたことがあった。その夜高熱でうなされていたのだが、母は夜の仕事が休めず仕方なく預けたのかそのあたりのことはよくわからないが、父の別宅に連れて行かれ早く横になりたくて仕方ない私を横目に父はでかける準備をしており、「炬燵にはいっとけ」と言われた後出かけていった。「マジかよ....」と思ったかどうかは忘れたがしばらくすると物音がして知らない女がシュミーズ(と今は言わないだろうけれど、この方がしっくりくる)一枚で風呂場からでてきて「麻衣ちゃんってあんた?」と言われた後に「熱?大丈夫?悪いんだけどこれ、塗ってくれんかな?」と赤いマ二キュアを渡された。
「おまえ、誰だよ...マジかよ...」と思ったかどうかは憶えていないが、しんどいなかペティキュアを塗らされた。安いマ二キュアのシンナーみたいな匂いに吐きそうになりながら適当に塗っていると「ちゃんと塗らんとだめよぉ。甘皮もきれいにできる?」と言われ、「できん」と言うと女はブツブツ言いながら横になった私の顔の横で足の指の甘皮を処理していて、全部塗れなかったペティキュアを自分で塗っていた。その匂いが本当に嫌で「この女、わざとやってるだろうイヤな女バカな女」と思ったことは強く憶えていて、赤いマニキュアを見るとその女と薄情な父、その夜の光景を思い出すので気分が悪くなる。
炬燵でうなされながら朝になる前に母が迎えにきてくれた。その時にはもう女はいなくて、父が戻っていたのを憶えている。
電車で拾った赤いつけ爪のせいで嫌なこと思い出す。最寄り駅のゴミ箱に投げ捨てました。

甘皮を綺麗に処理している女性を見るといいなと思う気持ちの裏になんかあざとくて嫌だなと思うものが一緒になってしまっている。綺麗な人だとなおのこと。

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2015年12月07日

Television - Poor Circulation

昼間、聴いていた。
それからLive At The Old Waldorfを聴く。
The Dreams’ DreamからVenusの流れをもう一度聴きたくてリピート。
聴いていると、この季節短い日中の時間がもの凄く長く感じる。胸が熱くなったりする。暗い気分にもなる。そのあいだ、ほんの短い時間だと思ったのに、さっき淹れたと思っていた珈琲に口をつけたらとても冷たくなっていた。


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2015年12月31日

世間(一人)噺。

2015年も終わろうとしています。
わたくしごとですが、今年はぬかるみの上を一歩一歩踏進んでいくような一年で、
日々は、雨に打たれた本のページを慎重に捲らなければいけないような時間が多かったです。年度が変わってもしばらくはこのような日々が続いていくんだろうなぁと思っています。
2011年、震災以降は特に〈考えない人〉のままで暮らしていくには年々、難儀な世の中になっているのだと身に染みることが大小関わらずにたくさん、ほんとうにたくさんあります。
私なんかは〈考える力〉が乏しいまま大人になったので、今更ですがものごとに無関心で在れた時期が懐かしいなどと思うことはなく、そう在れたこれまでは自分にとって不幸なことだったのだと気付けただけでもよかったと思っています。

今年は面白い本にも沢山出会えました。いい音楽にも。懐かしい人との再会もありました。自分で笑ってしまったのですが、それら全ては既に所有していた物や出会っていた人との再会でした。家の本棚、CD/レコード棚を整理していたら忘れていた物達がでてきました。何かおもしろいことはないか、新しい発見はないかと外にばかり目を向けていたのですが、過去の自分が収集したものに改めて目を通すことは、(再会した人とじっくり話すことも)今までの自分と具体性を持って対峙する時間でもあり唸ってしまうことも多かったです。
本と言えば、伊丹十三氏の著書数冊を読み返していました。新書では川村元気氏の「仕事。」という本が面白かったです。菊池成孔氏の新刊も。
2016年は減らしていたライブを徐々に増やそうと思っています。あとはなんだろう......あ、新しい作品を発売できるよう精進します。それから〈書く〉ということをもう少し突き詰めてやってみようと思ったりしています。やりたいことに一貫性がみられないかもしれませんが、ひとつひとつ雑に取り組んでいるわけではないのです。気が多い人間は、(無駄に)かかえこむ不安材料も多い気がするな......。
わざわざここで言うことでもないようなことを書いて、自分を鼓舞するようにしています。

まぁ、結論のない、明後日の方をむいてしまいどこにいくかわからない、答えのでない世間話のような暮れの雑文でした。

あ!今年一年、この寿司日記を読んでくれている人が増えたことがいちばん嬉しかったことです。
みなさまありがとうございます。来年はまいにち、短くても更新していこうと思います。

それではみなさま、よいお年を。
さよなら、さよなら、さよなら。





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2016年01月01日

オキマン。

大竹伸朗氏の著書「既にそこにあるもの」(ちくま文庫)の中で、山塚アイ氏と雑貨店の中で品物を選んでいるクダリがあり、山塚氏が「店の物を盗むのは『万引き』だが、自分の持ち物を店に置いて出てくるってのが面白くてやっていて、それを『オキマン(置き万)』ってよんでるんすよ。」と書いてあった。

私も小学生の頃同じようなことをやっていた。
通学路の途中に夫婦で営んでいた小さな本屋があり、その店の文庫棚に自分のお気に入りの本を入れて帰ったりしていた。数日後、なに食わぬ顔をして店に行き、本を入れた棚とは違う棚に自分の本が移動しているのを見てニヤリとしていた。ただ、それだけのことなのだが、そういう〈遊び〉をよくしていた。
店のおばあさんに見つかったとき「こんなことしたらいかん」と怒られたのだが、おじさんは「おまえ、おもしろいな」と褒めて(?)くれて、「なんでこんなことしたんね」と聞かれたので「本が動いてたら、手にとった人がなにを考えて戻したのかを想像するのがおもしろいから」と言うと「へんじんやね」と返されたのを憶えている。
他にも自分だけの〈遊び〉があった。
家の近所に空洞ブロックを積み上げて作られた壁があり、
空洞ブロックの上の部分(ウェブという名称らしい)に穴が三つ空いていて、その穴を貯金箱にして500円玉を貯めていた。人様の家の壁の中にお金を貯めていくという行為が面白く、その前を通るたびに「誰もこの壁の中にお金が貯まっているなんて思わないんだろうなぁ」とニヤリとしていた。
ある日、その家が取り壊されることを知り、慌てて向かうと壁は壊されており、工事のおじさんに「壁の中にお金ありませんでしたか?」と聞くと、怪訝な顔をされ「あるわけないやろ」と返されて終わった。
500円玉を10枚以上は入れていたはずで、ないわけがないのだが。あのお金は何処に行ったのか、時々思い出すことがある。
自分にとってはどちらもひとりで楽しむだけの単純な〈遊び〉でしかなかった。
大人になりお酒の席でその話をしたところ「その遊びの何が楽しかったのか?」と聞かれたことがあった。
その時はうやむやな返事をしていたが、後日、よくよく考えると、〈遊び〉を思いつくことが楽しく、〈遊び〉自体を行っているときは凄く真剣だったことを思いだした。
こういう〈遊び〉は地味ながらまだいくつかあるのだが、それがなんだったのかと言われたら未だに判らない。
最近はもう、〈遊び〉ではなく、入った店に自分の持ち物を忘れて帰ることが増えてしまった。









posted by 見汐麻衣 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする