2020年04月25日

2020年4月25日(土)「台所よ!」

一日の半分を台所で過ごすようになった。
家に篭るようになってひと月。少しの散歩と近所のスーパーへ買い物にいく以外はまったく家に居る。
家の至る所でくつろぐようにして見たものの、中々に腰が落ち着かない。
机に向かうとやるべき事へのスイッチが中途半端に入り焦る気持ちも生まれるし、ベッドに横になるとロクなことを考えない。
ソファに座ってボンヤリとすることもできるが、夜にだけそうしていた時間がいつでもとなると少し調子が狂う。
リビングの座椅子も同様で、音楽を聴くことに至っては時間がたっぷりあると思うと深夜から朝方になってしまう。

何かと忙しくしていたひと月前まで、台所は食事の準備をするだけの場所だった。
何もないときは夕方から仕度を始め、ラジオを流し、ビールを呑みながら夕食というよりもアテを何品か作る。
それも週に3、4日、外に呑みに行くような暮らしをしている身からすると贅沢な時間でもあった。
私は独り身ではないが、独り身のような時間の使い方で日々をずっと送っているようなものだった。故に家にずっと誰かと一緒にいるということも、このひと月が久しぶりではなかろうかと思う。苦痛になるということなどないのだが家の中で自分の腰を据える場所がない事にハッとしたのだ。
ずっと暮らしている家は一日の終わりに帰る場所であって、24時間留まる場所ではなかった。
酩酊し帰宅して倒れこむ布団の匂いに「帰ってきた〜」と安心していたはずなのに、毎日静かに床につくようになるとシーツや枕カバーがピシッとしていないと気に触る。そうなってくると至る所が気になってしまい、何が何処にあるやらわからなくなっていることにも気づく。
直ぐに読もうと思っても出すことのできない本棚の乱雑さ、何処に片したのかも忘れてしまった爪切りや耳かき。
中途半端に整理整頓された部屋の中で迷子になっているものたちを探す度にくたびれてしまう。家にずっと居ることよりもこちらの方がストレスだ。

そんな中、気づくと台所だけは落ち着く。私にとって風呂や手洗いは「ほっ」と一息つける場所だが台所はそれとも違う。
換気扇の下で一服しながら珈琲を啜り、立ったまま本を読むこともできる。アテを作ってそのまま丸椅子に腰掛け簡易酒場にもなる。
ラジカセで音楽やラジオを流しながら洗い物をするうちに机に向かうまでのアイデアがまとまる事もあれば、使い込んだ道具や器をただジッと眺めているうち気持ちが穏やかになりもする。
部屋に飾っていた花の色がすえてきたら、背の低い瓶に入れ替えて枯れかけの花を水切りし、流し台の側に飾りなおす。そこからまた枯れ果てていく花弁を見ていると、このひと月の時間の流れが可視化されているように思える。ひと月前、ふと見て気付くと枯れていた花も今では死際まで私に執着されてどういう気持ちでいるだろうか。

散歩や食材の買い物に出て近所を歩く、何も今までと変わらないと思っているものの、やはり違う。シャッターの降りた店の並び、人の入っていない飲食店、建物はそのままに、風景もそのままに、今までと同じで全く違うと痛感する。スーパーでの人の動き方も所作もそう。それがどうだ、買ってきた食材を台所で調理すること、食べることはずっと変わらない。唯一、今までと何も変わらない。変わることのない慣わしがあるというだけ。ギターを弾いたり、曲を作ったり、こうして書いたりする事も今までと変わらないことのひとつではあるが、その先のことは今までとやはり、変わっていくだろう。一栄一辱の真っ只中で変わらないものがあることは、こんな情勢の中にも平温であり続ける事を求める私のたわごとかもしれないが腹が減っては軍は出来ぬというじゃないか、台所から生まれる暮らしの底力を舐めてはいけないと気づいた今日から「お台所」と口にしている。

「慣わしを変えるということは世を変えること」と、テレビドラマで男優が言っていた。まさに今、その最中かもしれない。
「慣わしを継続するということは世を生きる人々の暮らしを繋ぐこと」とお台所で私はブツブツ言っている。



posted by 見汐麻衣 at 20:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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