2020年02月13日

2020年2月12日(水)

毎日同じレコードを聴いている。
延々リピートしている。

何故こんなに聴いてしまうのかを言語化したいけれど、その必要がない気もしている。
ただ、自分にとって掴まれてしまう音楽にはいつも共通するものがある。
「いきもの」が生まれ過ごし果てていく、途方もない、又は短い「時間」の経過と
触れることは決してできないその「時間」の深淵に指先だけが触れる感覚があり、それは幻想かもしれないし、勘違いかもしれないのだが......という思考を経由してからの現実の中で確かに触れた・触れているという感覚。
流れている音楽を客観的に聴いていた筈の自分が、いつの間にか音楽の主体になり、初めて聴く筈のその音楽が「懐かしいもの」として存在しだす。大切なものは全てつつがなくそっと、懐かしいものの中に、静かな喧騒の中に置いて在る。誰も気づかないけれど。

花が蕾をつけ、咲いて、少しずつ枯れていく。
潮が満ちて引いていく過程。
朝、昼、夕、夜。までを過ごし、その後また朝が来るまで、ひとときの時間帯にしかない匂いや光。

例えば「これらを音楽にしたいんです」と、伝えた時に
感じたこと、感覚で采配を振れるのは、自分が作品を作るときだけかもしれない。

「抽象」的な事を鮮明に感じることのできる作品が自分にとって掴まれてしまう音楽の基準のひとつであるのだから仕方がない。

人様に必死になり「どれだけ素晴らしいか」を伝えたい時に必要な言葉を私は持たない。
抽象的なものへの理解を言語化するための時間は、(私にとって)自分自身を考える時間と等しく概念をあぶり出す行為になるのでやりたくないし、まぁできない。考えるにも体力と知識がいる。
手法や、過去にこういう「表現方法」があって云々という事から作品を語り始められると興醒めするタチでもある。
(掴まれてしまう音楽を)生み出した「その人」が何故こういうものを作ったのかに震動しているからかもしれない。
改めて、作品は作ったその人を聴く行為なんだと思う。

ここまで書いて、「いや、何を言ってるんだろう......」と自分でも思うのですが、メモ。

以上、乱文。



posted by 見汐麻衣 at 23:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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