2016年11月14日

普通を だれもおしえてくれない。

今月は哲学者、鷲田清一氏の著書月間。

「ことばの顔」「待つということ」
そして「普通をだれもおしえてくれない」
平行しながら再読。

私は物覚えも悪いし、頭はいい方ではないからとにかく本を読む。(ここでは小説の類いは入らない。)
もちろん本が好きというのもあるのだが、もの凄く好きかと言われたら違う。
知的好奇心だけは強いという自負はあるが、ものごとの読解力に長けてはいない。
なので何度も同じ本を読み返すし、ページを捲る速度も遅い。自ら、時間を費やし知ろうとしなければ遠退くばかりの憧れ。
ある人に「説明できないということは、そのものごとを考えていないからだよ。」
と、言われた日があった。
その時は「そんなことはない、考えているけれど、言葉にできない、いや、言葉にする必要のないものというのもあるんだ。」と答えた。
ある人は「そうかな、言葉にできないのではなく、言葉にすべきではない事象というのはあるかもしれない。だけどあなたが本当に知りたいと、真剣に相手に伝えたいと思うものごとなら、言葉で説明できるくらいにその対象を見るべきだし、観察するべきではないかな。」と返された。
「ものごとに適当にピントを合わせたみかた」だけでいろんなことを話す自分がもの凄く恥ずかしく思えてきて、「あぁ、恥ずかしいあぁ、情けないあぁ、今すぐ帰りたい......。」と思いながらも平静を装い酒をグイグイのんでいた。

関心のある〈ものごと〉を、目的の手段としてしか捉えていなかった自分は本当に浅はかだなと思った記憶が蘇る。知るという行為は、自分自身の知的好奇心を満たす為のものであって、人様にひけらかす類いのものではないのに。ハンナアレントという思想家が
「ある目的の為にすることと、それ自体に意味のある理由の為にすることとを区別しなければならない。」と言っていた。効用と意味との区別。

何故か、今思い出した。
以上、乱文御免。







posted by 見汐麻衣 at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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