2014年06月21日

夏至。

奇麗なフォームで泳いでいる人を見ていると、羨ましくて仕方がない。
水面に波ひとつ立てず、本当に魚のような人がいる。
あまりにも奇麗なフォームを見ていると、こちらはなんだか遠慮してしまい、同じ水の中にいることがいたたまれなくなる。

体幹を鍛えようと、ひと月前から区民プールに通っている。
準備体操をして水の中に入ると全ての雑念が消え、呼吸も深くなり、
身体を使い切る感覚がとても気持ちよいと知った。
水の中を1Kmウォーキングする。休憩を挟んだ後、ビート板を使って1km泳ぐ。
終わった後はいつもくたくたになっている。
身体が芯から疲れると、心地よい疲労感がやってくる。柔らかい疲労感というのか。
とても気持ちがいい。


10代の頃、夏になると地元の海で素潜りをしていた。
なんとなしに入ってみた雑木林を抜けた先に、こじんまりとした浜辺を見つけた。
自分以外に人がくる気配もなく、最初に見つけたときは「誰にも教えないでいよう」と決めていたのに、
こんなにいい場所をひとりじめするのは気が引けて、結局は友人を連れて遊びに行くようになった。

泳ぐ事は苦手だったが潜ることは好きだった。
ある夏、友人を連れてそのプライベートビーチ(と当時は勝手に思っていた)に行った。
岩場に貼り付いた鷹の爪(亀の手とも言う)を取り、少し潜るとサザエや貝がとれる。
私はサザエも貝も苦手で食べれないのだが、友人達は大好物のようで、早速火をおこし、持参した網の上でサザエや貝を焼いて食べていた。人がこないのでみな素っ裸。
三十数回過ごしてきた夏の中ではっきりくっきりと憶えている風景のひとつ。
想い出となった風景は、年を増すごとに色味も濃くなる。夏の想い出は特に。

一度、潜っている最中に足がつったことがある。
水面に出たいのだが思うように動けない。息も苦しくなって「あぁ……ダメだ。」と思ったときに
友人が助けてくれた。おもいっきり空気を吸って空を見上げたら、全て覆い尽くすかのような入道雲がそこに在った。水色と白のコントラスト。風もなく、波もなく、シンとした浜辺で見たその景色も、その日から遠ざかる程、頭の中では深い青と白になり、雲の形にも影ができ、波の色も浜辺の色も少し濃くなっている。
影なんかひとつもできないくらいの晴天だった筈なのに、想い出の中の風景には陰影が生まれてくる。
それは書き割りのような風景でなく、生々しさをなくさないよう、ずっとあの時のまま、立体的であって欲しいと望む自分が作りだす風景なのか。本当に在ったものよりも少し大げさにして思い出すことで、本当に在ったものが蘇ってくる感じなのか。

想い出が薄れていくなどとよく言うが、想い出の中の風景はどんどん濃くなる。
その風景の中で何をしていたか、何を言い合ったか、細かい感情などは薄れていってもいいとさえ思う。
大切なのは想い出せるだけの風景をいくつ持っているかという気がしてきている。その風景さえ忘れなければ
いくらでもその時の出来事は蘇ってくる。

風通しのよい風景をたくさん持って老いていきたい。
いつか自分で歩くこともできなくなったとき、
その風景だけが頼りだ。思い出すのが人の顔ばかりでは寂しい。







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posted by 見汐麻衣 at 02:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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