2020年02月03日

2020年2月1日(土)

阿佐ヶ谷VOIDで開催されているシャムキャッツ夏目君の個展を見に行く。
彼の作品を観ながら「試みること」について考えていた。

「作られたもの」には作った人の言葉が必ずあるんだと思う。
それが絵画でも、写真でも、オブジェでも、コラージュでも、文章でさえも文体に何かを感じるわけではなく、選び綴られた言葉が何かを言っている。
啓示的なものでは一切なく「言っている」だけで、それ以上でも以下でもない。
自分も含めたこの世の万事は未知で不明なことばかりで、それらを知るために掴むために、個人的な行為(これが一番重要)として独立した精神性を持って「試みること」ができているひとの作り出すものはどれもこれも面白くて胸を打つのは当然なのかもしれないと夏目君の個展を見て思った。
作られるものが変わっても同じ「創作」という範疇で見れば全て同じ。

ふらっと出かけた会場でひとつのものに固執して苦悩している自分が急にバカらしくなると同時に何かが一気にほどけた。


posted by 見汐麻衣 at 11:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月06日

2020年2月5日(水)

2月8日(土)下北沢leteトリオライブのリハ。
既存の曲を三人でどうやるかあれやこれや試す時間。
産声と等しい演奏になるかもしれませんが、面白くなるような予感がしています。



2020年2月8日(土)@下北沢lete
Open 19:00 / Start 20:00
予約 \2,300 + drink
当日 \2,600 + drink

見汐麻衣 Trio
見汐麻衣+坂口光央+池部幸太

ご予約
http://l-ete.jp/live/2002.html


posted by 見汐麻衣 at 03:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月13日

2020年2月12日(水)

毎日同じレコードを聴いている。
延々リピートしている。

何故こんなに聴いてしまうのかを言語化したいけれど、その必要がない気もしている。
ただ、自分にとって掴まれてしまう音楽にはいつも共通するものがある。
「いきもの」が生まれ過ごし果てていく、途方もない、又は短い「時間」の経過と
触れることは決してできないその「時間」の深淵に指先だけが触れる感覚があり、それは幻想かもしれないし、勘違いかもしれないのだが......という思考を経由してからの現実の中で確かに触れた・触れているという感覚。
流れている音楽を客観的に聴いていた筈の自分が、いつの間にか音楽の主体になり、初めて聴く筈のその音楽が「懐かしいもの」として存在しだす。大切なものは全てつつがなくそっと、懐かしいものの中に、静かな喧騒の中に置いて在る。誰も気づかないけれど。

花が蕾をつけ、咲いて、少しずつ枯れていく。
潮が満ちて引いていく過程。
朝、昼、夕、夜。までを過ごし、その後また朝が来るまで、ひとときの時間帯にしかない匂いや光。

例えば「これらを音楽にしたいんです」と、伝えた時に
感じたこと、感覚で采配を振れるのは、自分が作品を作るときだけかもしれない。

「抽象」的な事を鮮明に感じることのできる作品が自分にとって掴まれてしまう音楽の基準のひとつであるのだから仕方がない。

人様に必死になり「どれだけ素晴らしいか」を伝えたい時に必要な言葉を私は持たない。
抽象的なものへの理解を言語化するための時間は、(私にとって)自分自身を考える時間と等しく概念をあぶり出す行為になるのでやりたくないし、まぁできない。考えるにも体力と知識がいる。
手法や、過去にこういう「表現方法」があって云々という事から作品を語り始められると興醒めするタチでもある。
(掴まれてしまう音楽を)生み出した「その人」が何故こういうものを作ったのかに震動しているからかもしれない。
改めて、作品は作ったその人を聴く行為なんだと思う。

ここまで書いて、「いや、何を言ってるんだろう......」と自分でも思うのですが、メモ。

以上、乱文。



posted by 見汐麻衣 at 23:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月19日

2020年2月18日(火)

心が動いた瞬間に「さよなら」と言っている。
口にするでもなく、無言のまま静かに。


夕方。
幼子と荷物を抱えた女性が歩道橋の上で右往左往していた。
道に迷っているらしかった。声をかけようかとためらっていると女性はこうべを垂れて深いため息をついた。
ため息の流れる方に目をやると女性の小さな足。
その小さな足を見て胸にくるものがあった。自分の母親のことを思い出していた。

母は22.5cmの靴を履いてた。
玄関に並んだ母のスニーカーやハイヒールが浮かんだ。随分と昔の記憶。
朝も昼も夜も働く母親が唯一の休みだと知りながらも買い物に連れて行ってとせがんだ日があった。
あまりにしつこい私に母親は怪訝な顔をしてムクリと起き上がり無言で車の鍵を持って玄関に向かった。
普段はそんな履き方をしないのに、つっけんどんに踵を踏んだまま外に出ようとする母の足元を見て機嫌の悪さを改めて感じてしまい、悪いことをしたと自分を責めたことを憶えている。

連れ行ってもらった場所は当時町で一番大きなデパートで、一人でうろうろしているうちにすぐに迷子になる。
母のそばを離れずにいようと思うのだけれど、きらびやかな玩具や洋服に心が踊りいつの間にか母の姿が見えなくなっていた。
無理を言って連れてきてもらったこと、母の機嫌を悪くしてしまったことに後悔と悲しい気持ちでいっぱいだった。
半ベソをかきながら母を必死に探していると、母が私を探している姿が見えた。
その時私は何故か咄嗟にしゃがみ込み隠れた。どうしてそうしたのか今でもわからない。しゃがみ込んだまますり足で母の足元を見ながら母を追いかける。一瞬立ち止まった母が踵を踏んだままの靴を履き直した。そして早足で私を探しだした。
私はスクと立ち上がり母の元まで駆け寄った。母は「あんた......なんしよるとね。いい加減にして。はよなん買うか決めて。帰るよ」
怒られているのだけれど嬉しかった。母が靴を履き直したこと、その瞬間を見ることができたことが嬉しかった。
とても歪んだ受け取り方かもしれないが私はその時、母親の愛情を深く感じたのだと思う。



今まで思い出すこともなかったその記憶が一瞬で現れ、味わい、消えた。
我に返り道に迷っていた女性に声をかけた。東京メトロ副都心線までの道順を伝えた後、後ろ姿をしばらく見送りながらどうして女性の足をみて胸にくるものがあったのか。これまで思い出すこともなかった母との記憶を今一度味わう気持ちは既にない。
記憶にも弔うタイミングがあるのかもしれない。ふとしたことがきっかけになるにしろ、それは突然にやってくるしこちらの都合ではない。
思い出したからといって何かが変化するようなことでもない。ただ生きてきた中で、鮮明に語れる記憶以外の中にその人にしか解らない大切なものがあるのかもしれない。一瞬心が動くその瞬間と同時に「さよなら」と清々しい気持ちで手を振ることが最近増えている。
大切なものほど抱えることなんかしないほうがいいのかもしれない。




posted by 見汐麻衣 at 13:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする