2019年04月05日



春が来ました。
桜は、満開になっている姿を観るのも好きですが、花弁が散りゆく中を歩くことの方が何より好きです。
寿司日記『末期の目』でも書きましたが、毎年この季節「生き死に」というものを一年の中でよく考えます。
夏は過去の想い出が鮮明に蘇りやすく、秋はもう会えなくなってしまった人達のことを強く思い、冬は現実と向き合ってばかりいるように思います。四季があるおかげで一年間、淋しさを持て余さずに済んでいるのかもしれません。
で、春です。
「求めれば必ずやってくる『その時』には、精一杯悔いなく進撃でありたい。ふいにやってくる『その時』には、崩れ落ちないように強くありたい。過去は、ただ過ぎ去っただけの日々ではないのだと念じつつ、一方でただ過ぎ去るだけの有難さも感じている。」
こういう気持ちになるのが毎年この時期です。そして散りゆく桜の花弁を見上げながら歩くたび、桜並木というものはあまりに綺麗で、いろんなことの「終焉」を迎えた人だけが観れるものであり、通れる道であり、見ることの許された風景であればいいのになと思います。そう思うくらいに桜の散り際というのは他のどの花より浄く、甘美。全てを慰めてくれているように感じます。




飲み歩く回数が増えるのも春が多いです。
馴染みの店でよく会うY監督と、どうでもいい話から映画の話、世間話なんかをするのですが、
「男の人も女の人も、年を経てくると後ろ姿にその人の全部が滲み出る気がするとずっと思っていたんですけど、最近は『歩き方』の方によりそれが出る気がするんですよね」と、Y氏に尋ねたところ「解る気がする」という応えをもらい、ここ数日その事について考えていました。
「後ろ姿」というものは自分じゃ確認できないし、ましてや「歩き方」なんていうのは人に観られる仕事でもない限り大体の人は然程意識せず当たり前にやっている事なんだろうと思うのですが、この部分にその人の過ごしてきた全てが、もっというとこれまで何を食べてきたのか、嗜好品が何か、運動をしているのか否か、座り仕事が立ち仕事かといったことまで出てしまうと思っています。
普通に歩いて、動いている姿、形が実は一番雄弁に己を語っているのだと思うと外で酩酊し、千鳥足で歩いてばかりいるこの時期の自分が居た堪れなくなるばかりで、あまりいい事ではないと思いました。



話の続きになるかはわからないのですが、お葬式で骨上げをする事がこれまでの人生で幾度かありました。
親しかった友人や、親族の骨上げを行う中で、火葬された故人をこれまで支えてきた骨。
祖母の骨上げの時でした。右足首辺りにボルトを見つけ、この人の歩き方にクセがあったのはこのせいだったのかと骨になって初めてわかったことがありました。祖母が右足をかばいながらトント コトントと不思議なステップで歩く後ろ姿を思い出し、叔父から聞いていた祖母の人生を思い出させた後に、今度は幼い頃に毎日暮らしていた情景の中に祖母の後ろ姿が浮かびました。台所仕事での後ろ姿、裁縫をする後ろ姿、私を負ぶっている背中の丸みの上で感じるトント コトントのリズム。
いろんなことを寡黙に耐え生きてきた中で、なだらかな背中を形成してきたのかと、その瞬間号泣した事を思い出します。
死人に口無しとは言うけれど、骨になってもなお、いや、骨になって初めて、教えてくれる事があるのかと思うような出来事でした。

骨まで愛して。骨身に染みる。骨抜きにされる。骨折り損のくたびれもうけ。
「骨」を使う言葉にはその人の髄の真から発せられるような慣用句が多いような気がします。
自分のすがたが人様にどう映るのか、まずは猫背をなおし、まっすぐに歩けるよう改めようと思う春です。
死ぬまで生きるしかないものね。



posted by 見汐麻衣 at 17:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする