2017年01月01日

謹賀新年。

明けましておめでとうございます。
寿司日記をご覧頂いている皆様、皆様にとって「そんなにいいこともなかったけど、わるいこともなかったなぁ、毎日美味しく食事ができて健康で、よく笑ったなぁ」というような、これぞ「普通のしあわせ」というような、
そういう一年を過ごせますよう念力送ります。

□実家に帰省している。
高校の3年間、学校は違ったが毎日会っていた女友達に15年振りに会う。
彼女を待つ間、15年も会っていないのだから、緊張するかしら......などと考えていたのだが、
会ってしまえばなんのことはない。昨日もこうして会っていたかのようにとても自然にあの頃のあの感じだった。友人というのは、いいもんだなと思う。社会にでて、仕事や呑み屋、その都度住んでいた場所で知りあったひとの中にも大切な友人は少ないがいる。それはとても幸せなことだと思っているのだが、退屈で気だるく、不安定このうえない十代の頃を一緒に過ごした女友達というのはお互いの間にわずらわしい仕事の話もなく、利害関係というようなものが一切なく、ただ心配しあったり、馬鹿な話を延々したり、なにもしないことを延々一緒にできる、大人になればなるほどつくることの難しい希有な存在なのだと思う。
数日後には17年振りに中学校の同窓会がある。とても楽しみだ。

■早く起きて、近くの神社に初詣へ出掛けた。
地元の神社は普段閑散としているのだが、今日ばかりは混雑していて活気があった。
おみくじをひく。今年は吉。(去年は末吉、2015大凶、2010〜2014凶)すこしずつよくなっているじゃないか。人様にすぐ、寄りかかりたくなる気持ちが顔を出さないでいいように。独立独歩。健康第一。少しずつ丁寧にやっていこうと思いお賽銭も奮発しお参り終了。車を走らせながら大きな声で無意識に歌っていたのはジュリーの「君をのせて」でした。

□実家に帰ってきてから高峰秀子氏の本を読んでいる。
憧れに似た感情を抱く女性が三人いる。茨木のり子氏、向田邦子氏、そして高峰秀子氏。
もうこの世に存在しないお三方。どの女性も文才に優れ、同じ女性なのにな、自分には備わっていないもの、聡明で強く、愛するものに丁寧で真摯で、生きている時間の隅々まで粗末にしない生き方に羨ましさが募る。
と、いうような話を数年前にも古澤健監督と呑み屋で話したことがあったのを今思い出した。
古澤さんは「いやいや、ミシオさんは深沢七郎っぽさがあるよ。自分の事も他人の事も誰も愛してないっていう。それは愛するって何なのって突き詰めて考えなきゃいけなかったりするけど。タイミングが悪い時に、言っちゃいけない事言っちゃったり、そういう所が深沢七郎っぽいなって。それは、極端に言ったらいつも自分の畑と宇宙の事しか考えてないってこと。」
妙に納得してしまったのを憶えている。
自分の中に枯渇した湖がずっとあり、それは心というものかもしれないのですが、その湖がどうやっても、なにがあっても固くなに満たされることを拒み、むしろ潤いそうになったら自分で湖の栓を抜くというようなことをしてしまう。それが何故なのかをずっと考えているものの、乾いたままでいることが自分のバランスを保つ方法なのかもしれないと思いながら暮らしている。憧れというのはまぁ、理想であり、理想というのは常に完璧でないと嫌なわけで、その完璧さを自分に求めても無理だと思っているので、結局憧れは憧れのまま終わるのだろうか。いや、自分次第か。いまはどうでもいいことね。

えーっと、
今年も宜しくお願い致します。
1月14日(土)@神保町試聴室 新春見汐麻衣ワンマンショウでお会いできれば嬉しいです。
posted by 見汐麻衣 at 18:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月03日

正月寿司雑記

先日購入した古本の中に葉書が挟んだままになっていた。
男が恋人に対して送った葉書。
最後に「今日までありがとう。お元気で。崇 S49.10.23」と書かれてあった。

こういうことは初めてではない。
13年前位前だろうか、福岡は西新にあったデパートで古本市があった。
そこで購入した本には500円札が2枚と手紙がはさまっていた。
香川県の古本屋で購入した本にも便箋が挟まっていたことがある。
隠したいものや、大切にとっておくのも違うが、捨てるには忍びないものを本に挟んで仕舞うというのは人の習性なのか。持ち主にさえ忘れられ、長い時間を巡りに巡ってふいに他人の手に渡った物の所在なさ。
結局どうすることもできず、本の中にしまったままである。
それから、本に挟まったままの手紙というのは、往々にして達筆、線が細い、筆圧が弱いのは何故か。
たまたま私が手にしたものがそういうものばかりだったのか。
文字に覇気がないのである。そしてそのどれも男が女に宛てたもの。
ひとつだけ、女が男に宛てた恋文というのがあった。
それはもう筆圧が強い。思いの丈が便箋のうらっかわにまでめり込んでいた。指でなぞってもわかるほど。
ド直球の想いをなんのてらいもなく投げつけている。
私だったら他人に見られようものなら恥ずかしくて死んでしまいたくなるだろう。

男が女に宛てた手紙はどれも万年筆で綴られたであろうものだった。
男は想いをしたためるのに、文章も手紙全体の雰囲気さえも演出しているように思える。
いつか誰かに見られてもはずかしくないように。
そういう部分に気付いたとき、男の繊細さというのは厄介なしろものだなと思う。
思うのだが、その厄介な繊細さを持ちあわせた人が生み出す映画や小説音楽などに感嘆し、影響を受け、鼓舞するのだから、まいってしまう。
いちばんはそういう男と付き合わなければいいだけの話である。
本の間に挟んで、しまっておきたくなるような手紙を書かない男が、いい。

















posted by 見汐麻衣 at 12:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする