2016年08月14日

軽薄のすすめ

古本と新刊を扱っている吉祥寺の本屋、百年へ。
本当にいい本屋さんだ。時間を忘れ背表紙を凝視。本棚の一番下の棚までみてしまう。そして毎回この「一番下」に「いい出会い」があるものだ。探していた本はなかったが欲しい本がたくさんあった。数冊購入し、ひきがたり4ツアーのフライヤーも置いて頂く。(ありがとうございます。)もし見かけたら手にとってください。素敵なデザインですので、是非。

「生きていることは、汚れることだ、ということは生きているうちに次第にわかってくる。
その考えが決定的になったのは戦争のときである。汚れることが厭ならば、生きていることをやめなければならない。生きているのに汚れていないつもりならば、それは鈍感である。」吉之淳之介著「軽薄のすすめ」(角川文庫)

読みながら、幼稚ながらも自分の〈考え〉が決定的になるような経験や事柄がいくつかあっただろうかと思い返してみる。自ら考え導きだした結論(ただ、この時点では仮説のようなものだが)の「答え合わせ」は、気が遠くなるくらいの時間が経ってから訪れることもあるし、そう思った数ヶ月後に「やはり、そうなのだ。」と思うこともある。ただ、これは自分が何かをする時にベースになるルールが増えていくというようなことであるからして、人様にべらべら話す類いのものではない。

自分で考えるということは常に訓練していけばできると思うのだが、考え抜いたことにきちんと、丁寧に向かい合い、それを実践していく事の難しさばかりが増えていく。なにも難しいことではない。考えたことでとてもシンプルになっている筈で、当たり前なことなのに、これができる人、できている人は本当に少ないと思う。自分の周りでも数人しか知らない。
これを難しいと思うことが可笑しなことなのだが、これは多分、質の問題で、私は飽きっぽい性格故、考えたことが途中で自分にとって都合のよいように変換されてしまうことが多分にある。そうすると、矛盾が生じ、考え抜いたと思っていることがいつの間にか頭をかかえる原因のひとつになり、逡巡する材料になり、自分を嘲笑している時間が増える。自分に足りないものばかりをみつけようとする癖も相まって、なにもできなくなる一日がずっと続くことになる。(壮大なただの言い訳のように思えてきた......。)

話が脱線しましたが、軽薄のすすめを読みすすめていると、生きていく中での「汚れかた」も「汚しかた」にも、ユーモアが必要なんじゃないかと思わされる。
自分の器がただの汚濁でいっぱいになるのは御免だと思う。
それによってオボレジヌような人生はもっと嫌だと思う。
posted by 見汐麻衣 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする