2016年05月23日

アル中ハイマー

と、いう造語を作ったのは山田風太郎氏だったと思う。
気になって、山田氏の随筆「あと千回の晩飯」(朝日文庫)を読む。
やはり、そうだった。アル中ハイマー。最近お酒を呑みながらふとこの言葉が浮かぶ。そして一人で苦笑してしまいます。

本を読み直していて、下記の文章に掴まる。
「(前略)自分と他者の差は一歩だ。しかし人間は永遠に他者になることはできない。自分と死者との差は千歩だ。しかし人間は今の今、死者になることができる。」
「私に〈あの世〉への親近感などない。それはないがこの世への〈違和感〉ならある。いわゆる厭世観(ペシミズム)というやつか。ただし、ほんのちょっぴりとだが。ほんのちょっぴりだが、この深層心理が私に平然と煙草をのませ、大酒を呑ませる原動力となっているようだ。」
著者は自分のことを「意識の底にいつも死が沈殿しているのを感じている人間だ」と、書いている。
何の外因がなくとも、生よりも死に憧憬を強く抱く人間がいるんだということは、今ならなんとなくでしかないがわかる。そういう気配を漂わせている人というのは確かにいる。そういう人と話していると、この世を浮子のようにプカプカと浮くことはせず、流されることもせず、常人には大抵理解できない思考でものごとを見て、感じている気がする。それはきっとものすごい労力なんじゃないかと思う。身体を使う労力とは異なる、考える労力。
「なんであの人が......」と皆が驚くような人が自死を選択するのをニュースや身近でもいくつか聞いてきた。
きっと常人にはわからないものなのだと思う。悲観などではなく厭世観によってそれを選んだ人の思考や気持ちなど、理解してもらいづらいだろうし、理解するなどという類いのものではないとも思う。思うのだが、個人的にはこの世に絶対的な絶望だけを感じとってしまっても、死にきれないという人の方が愛しいと思ってしまう。可能性や希望なんていうまやかしの言葉はもう信じてもいないけれど、地獄は地獄と腹を据えて仕方なくでも生きている人の方が愛おしくないですか。
そして私ときたら悪趣味かもしれませんが、そういう人に憧憬を抱いてしまいます。






posted by 見汐麻衣 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月31日

ある日。


「ある日」

ある日
会社をさぼった
あんまり天気が
よかったので

公園で
半日過ごして
午後は
映画をみた
つまり人間らしくだな
生きたいんだよ僕は
なんて

おっさんが喋っていた
俳優なのだおっさんは
芸術家かもしれないのだおっさんは

ぼくにも かなしいものが すこしあって
それを女のなかにいれてしばらく
じっとしていたい


辻征夫さんの詩。

夕方、電車の中、座席に座り読む。
不意に泣けてきたものだから座って俯いていると涙が垂れてしまう。サッと座席を立ち、吊り広告を見るふりをしながら流れそうになる涙をとめる。
「不意をつかれる」ということが時々ある。
ぼんやりしているときにそれはよくある。
なんとなし、開いたページや、ふいに目にした看板の文字。
街にある落書き、電柱や標識に貼られたステッカーの中の短い言葉。
偶然か、思い込みか、「今」の全てを肯定してくれるようなものが多い。

一年前の今頃、近所の蕎麦屋で昼食をとっていた。
新聞を開いて最初に目に飛び込んできた言葉。
「感性にまっすぐ届く作品群はひとつ誤ると退廃に転ぶ」
この日、ブツブツと念仏を唱えるようにこの言葉を口にしながら
どういうことなのか、ずっと考えるいちにちがありました。





posted by 見汐麻衣 at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする