2020年06月30日

2020年6月30日(火)「シャムキャッツ」


2009年「はしけ」がでた頃に知り合って、なんとなく縁があって、夏目君とは特に、音楽の話しをするよりも「バンド」の話をすることが多かった。もっとこうした方がいい、ああした方がいいなんて事を偉そうに言ったこともあったし、四人それぞれのキャラクターを近からず遠からず眺めるような距離に居たからか、その都度感じるものがあり、夏目君の言動行動に違和感を感じたりすると老婆心から口を挟んでいたこともある。昨今、こんなにバンドバンドしたバンド、居ないなと思っていたことも多分にある。バンドが徐々に成長していく過程の中で、激流に突っ込んで行こうとする時期さえも、このバンドはきっと大丈夫!怪我した箇所を治癒する間こそグンと成長する人達だから(怪我の功名とはいえ、つまり頭がいい)、何ならもっと大怪我しなはれやなんて本気で思っていた。それは私自身がシャムキャッツと言うバンドのことが大好きで、出会った当初から気掛かりで(これは昔夏目君にも言ったけれど)自分の理想とする「バンド」が目の前に現れたからなのだと思う。(4枚目のアルバム「Friends Again」は特に大好きだ)みな一様にバンドに対する考え方があると思うのですが、私は常々「本気でバンド組めるのは人生で一人一度だけ」説をずっと、場末の酒場で唱えている。酔った中年の戯れ言だと思われがちだが、そんなこたぁない。「バンドをまだ組んだこともない時、最初に誰と出会い、誰とバンドを組むか」自分の人生を変えるくらい大切な出会い程、足音一つ立てずやって来る。まぁひとつの人生を青春をどのように過していくかの分岐点だったりする。人によっては人生狂わせるきっかけにもなり得るし、大きな収益を手にすることもあるかもしれない。元来水商売とは先の見えないものだろうけれど、最初に組んだバンドと、それ以後に再びバンドを組むことには大きな違いがある。バンドを組まずに音楽をやることだって出来るのに、人はつい、バンドを組んでしまう。何故ならバンドは最高だからだ。そして最低でもある。いい悪いではない。話が逸れた。

一緒にツアーを回ったことや、企画に呼んでもらえたこと。随分昔の話だけれど、こちらのやっている事を突き上げてくれるような、少し口悪く言うとケツを蹴り上げてくれるような出会い方をしたのがシャムキャッツでした。2010年当時悶々としていた自分のバンドのことがあり、風通しの少し悪くなったバンド内の空気の入れ替えに一役買ってくれた。あのエネルギッシュで無敵でギャンとギターが鳴ればロックじゃん!ウヘヘ!と言うような、20代前半の四人組と出会わなかったら、バンドだけが作ることのできる音楽の不思議に改めて胸がときめくこともなかったと思う。「経験」は、積めば積むほど必然的に大差が生まれるものかもしれないけれど、音楽そのものに先輩後輩のようなものは一切ないと思う身としては最後まで刺激を頂きました。
5月の後半。「解散するー」と聞いてまず最初にひとこと「淋しいやぁね...」と返した。
けれど、解散する側としてはやることやった!次!と思うのが普通だろ。そしてそれは新しい始まりでもあるのだからよく考えたら淋しいことではない。まぁ、私はシャムキャッツではないので、いちファンとしてやっぱりどこか淋しいと言う気持ちはあるけれど、継続のためだけにだらだら続けられて、こちら(客)がバンドの(音楽も含め)いいところを必死で探さなきゃいけなくなるような醜態を晒されるより健全で清いと思う。


今月、箸を握るのも億劫なくらい鬱々としているのですが、久しぶりにパソコンの前に座り、こうして綴っているそのきっかけがシャムキャッツの解散についてなのは、何か私もひとこと言わせてくれよと思う気持ちが溢れたからです。最後までシャムキャッツは名前の如く、気まぐれな猫のようでした。シャム猫って古風な外観と自己主張が強い性格をもった猫で注目を集めれば集めるほど生き生きと輝き最もよく鳴く品種として広く知られているらしいので、名は体をあらわすぅ〜!と思いました。バンド名ってほんと、大切。ありがとうシャムキャッツ。愛を込めて。









posted by 見汐麻衣 at 19:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月21日

2020年6月21日(日)「ねの人」

横になってテレビをつけて音だけを聴いていると、話している人の声だけに集中する。
ラジオだと「声を使う。話す」と言う意識がディスクジョッキーの方にもあるわけで、「聴かせるための声」なのだけれど、テレビだと「視覚もあっての話し声」なので、演者もコメンテーターの方も声、と言うか話し方がフランクなんだなと気付く。芸人さんは面が見えても見えなくてもあまり変わらない。
横になり、天井を仰いでいると
「だからそノォ、ね、フリンがダメとかぁ、ね、言いますけれどもぉ、ね、まぁ、ね、元々がぁ、ね...」
ある男性のコメンテーターの方の「ね」が気になって気になって仕方がない。数えてしまった。数秒の会話に28個も出てきた。
「そうですね、つまりそれは....つまり....でですね、つまり...」別の人は「つまり」が多い。
後は「ですから」「スゥ(息を吸う音)」「だけど」まぁ、多い。接続詞に癖が出るんだなぁと思い、私は「でも」をよく使うなぁと気付いた。気をつけよう。

装いすぎだなぁ、自信なさそうだなぁ、疲れてるなぁ、適当だなぁ、怒っているっぽいけど言ってることは普通だなぁ、優しいけど辛辣ねぇ、内容何にもない、テンションだけのコメントだなぁ...、早口過ぎてもちゃんと聞こえるなぁ、おや、この人も同じ早口なのに何も入ってこないなぁ、なんて思いながら聴いています。声や話し方は嘘をつかないですね。怖いな、テレビって。観るものだと思って視覚と聴覚使っているから普段気にしないことも、ひとつ減らしてみると全く違うものが見えてくるものねと思い、国会中継や小池さんの会見は声だけ聞くようになりました。絵図らはいらん。
後、最近気になったのはマツコ・デラックスの話し声か。
posted by 見汐麻衣 at 22:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月14日

2020年6月14日(日)「入口と出口」

5ヶ月ぶりに髪を切る。
スパイラルパーマを希望したが、前回のブリーチにより髪が痛むとのことで、暫く伸ばしてから改めることにして、カットとカラーを入れ直してもらう。「マルサの女」宮本信子演じる板倉亮子を意識したものの、完成した髪型は何処からどう見ても田嶋陽子。まぁ、いい。髪型ひとつで気丈にもしおらしくも振る舞えるくらいには軽い性格でもある故、暫くお喋りは語気強めでいこうと思う。

琉球ガラスで出来たコップに大きな罅を入れてしまう。19歳の頃、沖縄旅行に行きじっくり選んで購入した。
とても気に入っていたし、愛着もあったので自分でも驚くほどショックだった。一服しながらコップを手に持ち、付随する思い出に頭を巡らすうちに「ありがとさん」と声に出していた。新聞紙で丁寧に包み透明のビニール袋に入れた。
器やグラスにも一々思い出がある。そのもの自体に宿っているのではなく、身体の記憶の先、「触れる」と形が在り「撫でる」と手触りが在り、両手で「包む」と温もりが在る。指先や掌が感じる「物」を介した記憶に、どうしても執着してしまう。


先週、トクマルシューゴさんが運営するレーベル「トノフォン」の配信フェスを一日中観ていた。コロナ禍でライブが全く出来なくなってからというもの、友人知人の配信ライブを観たり、自分でも数回行ってみたりした。「あまり、好きじゃないな」というのが私の結論だった。好きじゃない理由がイマイチわからないまま、ただ、好きじゃないと思っていた。結果、演奏はしたいがライブはもう暫く自分はやらないなと高を括り、出口のない作業に没頭することにしていた。
それが一変した。トノフォン配信フェスを観ながらトクマルさんの「Rum hee」という曲が演奏され、カメラワークにより、在宅で演奏している多くの演者がひとつの画面にコンプリートされる様を観て、感動していた。ヘッドフォンから流れる全ての音も豊かに響いてきて鳥肌が立った。
その後、演者の方々の演奏を観るに連れ、何故トノフォンフェスの配信だけは違和感がなく観れるのか考えていた。
酒をチビチビ啜っていると、開けていた窓から大きい風が一瞬身体を撫でた。ふと「身体の記憶」が蘇る。そうか、私が今観ている中で演奏される曲や、映像に映る人達の音楽に最初に触れた時の場所、即ちライブハウスだったり、野外会場の空気、人の集まる場所の匂い、雰囲気、身体で感じる低音など、身体が覚えている記憶が映像を見るうちに自然に補強されていると思った。体感として既に知っている、何度も味わってきた「あの感じ」が思い出されたことが大きいのかもしれないと思った。どの(配信)ライブを観ても、必ずそうなるわけではなかった。とすると、自分が経験したことのある場所や物事での記憶じゃないとダメなのかと思う。いや、配信でも充分に楽しめるけれど、人が発する空気の振動、緊張、間合いが、配信中に起こる回線不良による途切れに伴い、不意に遮断される集中力が「無機質なものの介在によるもの」と理解した途端何か「冷める」感じがあった。タイムラグひとつでも、人間の放つノイズとも、間合いとも異なる、機械の事故。機材トラブルなんて現場でもよく見かける事象だったけれど、其処にはピンと張り詰めた空気が漂っていたし、それさえも演奏の「味付け」として加えていける演者のパフォーマンスに一喜一憂していた。空気が作り出す全てを肌で感じていた。配信で同じことが起こっても何故かアタフタとする場面しか今の所観ない。それも冷める要因だったのかもしれない。それさえも楽しめれば、配信でのライブも、自分の中で身体の記憶として今後、残っていくのかなどと考えていた。
という話を月曜日、馴染みの店で、馴染みの人に話したところ頷くでもなく、遇らうでもなく聞いてくれた。
正直な反応で酒が進む。だって、誰にもまだわからないことだらけ。入口と出口はいつも、何事も自分で意識できる。コントロールできる。
けれど、その間のことはいつも自分だけでどうにもならないことばかり。
ライブはもう暫くできない、やらないと思っていましたが、8月末に私はひとまず、慣れ親しんだ現場で再開しようと思っています。詳細は後日。
再び、入口を意識した。さてどうなることやら。出口までの時間をどう生きていくのでしょうか。無我夢中という言葉を考えた人、凄いな。


追記
これは自分の問題ですが、映像として観ているのか、ライブ配信として観ているのかによっても、(カメラワークなどもある)受け取り方って変わるのね。と、今NRQの配信ライブを観ながら思いました。
posted by 見汐麻衣 at 14:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月07日

2020年6月7日(日)「メモ」


■Bandcamp始めました。
Bandcamp
「冷やし中華始めました」のような音読感。
今回、お勧めとしましては、牧野琢磨さんと山田参助さんとコラボレーション(と言うのかしら)した一曲。
今後、このような形で色んな方々と(今もう、既に始めているものもあり)一緒に作ったものもアップしていきたいなと思っております。
次回7月にアップできればと思っています。
お見知りおきを。

8月はうまれ月。12ヶ月でもっとも愛するひと月。
末広がり、無限。夏は過去のいろんな思い出を凍らせて、ひと月だけ、一気に溶かす。
早く夏になって欲しい。


posted by 見汐麻衣 at 19:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする