2020年04月08日

2020年4月8日(水)「映画館のはなし」

ふと気を抜くと、今の日常に対し「ぐあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁああああ!!!!!!!!!!!」となることが2日にいっぺん程度にあります。
時間でいうと5秒位ですが、この憤りの行方が握り飯を作る時、今までよりかなりキツく握ってしまう所に出たり、洗い物をする時に四角い皿をまるく洗ったりと、些細な自分の所作の中に食い込んできている時にハッ!とします。

先日、SNSを見ていた時のこと。
「SAVE THE CINEMA 4月6日
私たちは所属や分野を超えて、ミニシアターを救うためにできることをひとつずつ形にしてゆきたいと考えています。第一弾として、政府に対し適切な支援を要請するため、署名を集めています。全国のミニシアターを救うため、是非ご協力をお願いいたします#SaveTheCinema」
というのが流れてきた。もちろん、賛同した。

例えば、「文化」とひとくちに述べても、ピンとくる人もいれば、文化って言われても私にも関係あるのかな?と思う人だっていると思う。
エンターテイメントとして「人々を楽しませること」を真摯に真剣に行うことで収入を得ている人もいれば、それらの作品を上映する、演奏する、提供する「場所」を営むことで飯を食っている人がいる。その作品をより多くの人達へ観て(聴いて)もらう為に動く事を生業としている人もいるし、当たり前に使用している道具や、食品、飲物、洋服、靴...などを世の中に届ける為、トラックを運転する人も在れば、届けてもらうための様々な商品を開発するような会社に勤める人が在るように、個人営業でうまい飯や酒を提供する人が在るように、「作ること」も「作られたもの」も、それ自体を色んな人達の目や耳に届ける、提供するのは人間の仕事で、人が居ないと何も生まれない。すなわち「文化」を育むのも継続されていくのも世の中のひとりひとりがどんな形であれ携わっていなければ何も成り立たないんだと思う。
そう考えるとこの世で生きている以上、文化に触れずに暮らすことなんて(北の国からの五郎さん一家くらいのDIY精神と人と人との繋がりを指針として暮らしている人もいるだろうが)なかなか、難しいことではないかと思う。こういう情勢になると「娯楽」と呼ばれるものは大抵後回しにされるんだと今回痛感してもいる。
「物事の全体を俯瞰する視界を持ち、目の前の状況を自分にしっかり引き寄せて、"私ごと"として考える姿勢から始めてはどうだろうかと思います」とは倉本聰の言葉ですが、今同じ事を思っています。

いち、市井の人として育ててもらったというとお大袈裟かもしれませんが、そのひとつでもある映画館、もっというと単館(ミニシアター)は本当になくなって欲しくない。それぞれの町にあるミニシアター。過去に様々な事情で閉めざる終えなかった所もあったとは思いますが、今回はちと状況が違うと思っています。


PCを整理している途中、2011年発刊「TRASH-UP!! 09」に寄稿したコラムの原稿が出てきた。
今一度、ここに再掲しようと思います。誰にでもひとつくらいなくなってもらっちゃぁ困る「場所」があると思う。



『映画館』

福岡にある映画館、シネ・リーブル博多駅が2011年5月13日で閉館した。
2001年の暮れ21歳。当時勤めていた中古レコード店を辞め、映画館の面接を受けた。
アルバイトで入ったこの映画館は支配人と営業/宣伝担当の社員3人、アルバイト6人、総勢9人のスタッフで運営される2シアターの単館で、基本はみんなで劇場内の全てを行うというスタンスであり、その中で映写、宣伝補佐、物販、と役割が与えられた。
私はここで、映写をやりながら沢山の映画を観ることができた。思い出は上げればキリがない。
楽日の真夜中、一人でプリントチェックをした後、一服しながらできた曲というのがこの時期はたくさんあった。

呑み屋やなんかもそうだろうが、映画館にも常連さんというのがいた。
私はその一人一人に勝手に名前をつけて呼んでいた。「死霊のはらわたおばさん」「ビーチサンダルズ」「蛇使い」断っておくがみんな立ち話をするくらいの常連さんであり、決してバカにしているわけではない。しばらく見なくなると寂しくもなる。
その中にいつも映画館にくるホームレスのおじさんがいた。博多駅付近で寝泊まりしているのを出勤中みかけては何故かいつも気になっていたその人だった。私はその人を「拓三さん」と呼んでいた。ピラニア軍団の川谷拓三氏にソックリだったのだ。
受付にくるやいなや「うぅーうがぁーがぁー」と、両手をピストルの形に構え、上下に動かし出した。
なんだなんだ、クイズか?なぞなぞか?
「あががーんががーん」と延々発するのをなんとか理解したくて「任侠もの?ヤクザ映画?うちでは今やってないよ。」
と言うと、もの凄い悲しい顔をして出て行く。毎回こういうジェスチャーの類いを一通りやった後「やってないよ。」と言うと去って行く。いつも両手で差し出すクッシャクシャの千円札。ヨレヨレの千円札をどうやって稼いでるのか。
ある日の夜。拓三さんはいつものようにやってきてほっぺたに手を当て、ゆらゆら揺れ出した。しかしわからない、その時、拓三さんは初めて「んーんー!!」と、手のひらに何か書く仕草をしてみせた。筆談!私は今までそれを思いつかなかったことを悔やみ、勢いよく紙とペンを渡した。
何故か高鳴る鼓動。これでやっと...スッキリできる......。よかったね、ワタシ。よかったね、拓ちゃん!
渡された紙には、もの凄く達筆な人が書いたような筆記体。というか、もうなにかよくわからない乱れた線しか書かれておらず解読不能ギブアップ。「...あぁ...やってないよ......」と言うと、狂ったように叫び出して支配人にバトンタッチした。
今どうしているんだろう。元気にやっているんだろうか。
地方都市の単館。とても自由で、のびのび好きな事もやらせてもらえた。
藤田敏八監督が大好きな私は『にっぽん零年』という映画の公開が決まった際に、無理を承知で支配人にあるお願いをした。
「この機会にレイトだけ、一週間パキさんの作品を上映させてください!」ただのアルバイトがそんなことを言った所で普通なら即却下だろう。しかし支配人は「なぜそれをやりたいのか、どういう風な趣旨で考えているのか、企画案をだしてみろ」と私に言った。意外だった。
その時初めて「企画書」というものを作り、支配人渡した。作品によっては日活(当時は日活の経営下にあった)が持っていないフィルムもあるから、上にかけあってみる云々...という類いの事を言われ、「チラシも作っていい」と言われ一週間の上映が決まった。
上映したい作品をいくつかピックアップして、それをお客さんに投票で選んでもらい、その中から『野良猫ロック暴走集団’77』『赤ちょうちん』『妹』『ダブルベッド』『十八歳、海へ』『八月の濡れた砂』の上映が決まった。チラシも作り街の色んなお店に配ってまわり、フィルムの依頼から編集、みんなにも手伝ってもらい文字通り一生懸命だった。観にきてくれたお客さんからは設置していた感想箱にたくさんの気持ち(感想)を頂いた。嬉しかった。ただ、はっきり言って赤字だった。それでもやらせてくれた事には今でもとっても感謝しているし今の私に繋がるひとつ出来事でもあると思っている。

映画そのものに思い出を持つ人もたくさんいる。同じ位、映画館という「場所」にだってたくさんの人がそれぞれの思い出をもっているじゃないかと思う。持っていて欲しいと思う。勤めていた3年間、それ以後もツアーなんかで博多に戻る度に立ち寄っていた。年々、お客さんの足が遠退いているとは聞いていた。近くにシネコンもできるし、福岡にあった単館はどんどんなくなっている。それがいいことだとか悪いことだとかそういう話は今は、いい。ただ、なくなるとわかって残念だと思う人がたくさんいるのなら、単純に、もっとその映画館に足を運んでいれば少しは状況だって違ったかもしれないじゃないか?と思ってしまう。受け身に慣れすぎるとなにもかもにこれくらいでいいやとか、不平不満を漏らすだけの人になってしまいそうで怖い。なにをやるにしても、継続するにしても、毎回同じテンションで同じ気持ちで続けて行くことってのはきっと無理だ。自分の暮らしで考えてもそうだもの。けれど根底にはずっと、かわらない愛情みたいなものがなきゃ、ものごとはうまれないし、動かないし、成長していかないんじゃないかなぁと、閉館の知らせを聞いたとき考えていた。


3月の終わり、最後に立ち寄った時に嗅いだ映写室の匂い。
嗅覚が呼び戻す記憶の刹那さ。
いい映画館だった。いい場所でした。
ありがとう。
posted by 見汐麻衣 at 15:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月30日

2020年3月30日(月)


片田舎で暮らす小娘にとって、テレビは社会の窓だった。
特に、1983年から1996年の13年間、本当に毎日テレビを観ていたと思う。
ブラウン管の前、オープニング曲を録音しようとラジカセをテレビのスピーカーに押し当て、正座をした兄の横同じ姿勢でまんじりともせずに観ていたのは「西遊記」の再放送だったか。兄に話しかけるとゲンコツが飛んできた。当時、我が家には1台のテレビが茶の間に鎮座しており、兄が観たいもの、私が観たいもの、何を見るかで喧嘩ばかりしていた。チャンネルの奪い合い。最終的に延髄蹴りを受け四の地固めでギブアップ。「強くなければ勝ち取れない!」毎日の兄弟喧嘩から憶えたのは自己主張するばかりではダメで、知恵をつけなければということだった。

それからしばらくして、父方の実家で暮らすことになった兄と私はお爺ちゃんの部屋にテレビが1台、叔父さんの部屋にテレビが1台、計2台在ることに狂喜乱舞した。夕飯が済むと兄と私は叔父さんの部屋でテレビを観ているのだが、土曜日の夜8時「俺たちひょうきん族」が始まると、私は静かにお爺ちゃんの部屋に移動する。「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」が観たいがためだ。加トちゃんけんちゃん...の前は確か「八時だヨ!全員集合」で、この辺りの記憶はおぼろげなのだが、「日本昔ばなし」の後に「クイズダービー」を観て、「八時だヨ!...」をしっかり観るためにトイレにいって準備をしていたことを憶えている。

お爺ちゃんの部屋にはお婆ちゃんがいて、二人とも静かにテレビを見るでもなく見ているのですんなりとチャンネル権が与えられた。ただ、月曜日の夜8時が大変だった。「ワールドプロレスリング」が始まると叔父さんと兄は食い入るように観ている。私はお爺ちゃんの部屋にいくも「水戸黄門」をやっているのだ。私は「志村けんのだいじょぶだぁ」が観たい。さぁ、どうするか。「お爺ちゃん、これ肩叩き券つくったとよ。今使う?」「おぉ!使うありがとうなぁ」「うん!じゃぁテレビを志村けんにしてね」「あぁ....はいはい」これが通用するのはお爺ちゃんの機嫌がいい時だけ。顔色と声色をしっかり伺わなければいけない。虫の居所が悪い時は「なんばいよるとか!ばあちゃんが見よるやろうもん!」と、怒声が飛んでくる。そう怒鳴られても、私だって志村けんを観たい気持ちは止められない。
最終手段は歩いて2分の所に在る幼馴染の家に転がり込んでテレビを見せてもらうのだ。「ありゃ、観せてもらえんかったね?また来たとけ?あんたも好きねぇ......」こんなことをしてまでも私は志村けんを毎週観ることを本当に楽しみにしていた。

小学校3年生まで私のお笑いスターは圧倒的にドリフターズ(ドリフ大爆笑の方が馴染み深い)、そして加藤茶と志村けんだった。
加とちゃんケンちゃん...の「おもしろビデオコーナー」も大好きだった。いんぐりもんぐりも好きだった。
翌日、学校ではみんな志村けんになっていたのだ。当時片思いしていた男子が「だいじょぶだぁ太鼓が欲しけど売ってない」とボヤいているの聞けば、私は紙粘土でだいじょぶだぁ太鼓を作りプレゼントした過去がある。(渡した瞬間、紙粘土が乾いてしまっていて3つの太鼓が折れていた。私の片思いは全然だいじょぶだぁじゃなかった)


それが小学校4年生になると一変する。
ゲームボーイが発売され、テトリスが大ブームになり夕飯までの時間はテレビの時間よりもテトリスに費やす事が増えた。そして「とんねるずのみなさんのおかげです」が始まる。遅くまで起きている事も増え、土曜日は「ねるとん紅鯨団」〜「夢で逢えたら」を観るのが毎週の楽しみになっていた。小学校5年生になると「ごっつええ感じ」が始まった。

中学生になるにつれ、志村けんを「なんだかツマラナイナ......」と思っていた時期もあった。自分が成長する中でテレビに求める物が変わっていったことも大きいと思う。20代はバカ殿をやっていても観ていなかった。「まだやってるよ、バカ殿」なんて言いながらチャンネルを変える。今思うとその時の私を延髄蹴りで落としたい。好きと言ったかと思えば、嫌いと言い、すぐに夢中になるくせに、すぐに飽きる。テレビを観る側というのは本当に残酷だ。音楽を始めてから本当に痛感する。テレビと音楽は全く異なるフィールドであれ、ものを作るという視点で言えば同じ、本気で取り組んでいるもの。でも、観る側はそんなこと関係ない。「もっと楽しませてくれ」「もっと和ませてくれ」「もっと、もっと」という時代も確かにあったと思う。今じゃテレビに常識を求め、八つ当たりするような対象になり、テレビの中の世界に憧れるなんて時代じゃないのかもしれない。それでもやっぱりテレビが好きだから大いに期待しながら観ている。

30歳を過ぎた頃、ある日帰宅してテレビをつけるとバカ殿様が始まった。しばらく観ていると爆笑している自分がいた。「志村けん...凄いな!やっぱり凄いな!」急に懐かしさが込み上げ、小さい頃からずっと遊んでもらっていた叔父さんに久しぶりに会ったかのような感じがした。変わんないね!元気そうだね!しかも、面白いね!相変わらず凄いな!志村けんとタモリには特に、そういう認識がある。

今朝。
「志村けんが死んだ...!」
夫の声で起きた。寝ぼけていたので何を言っているのだろうと思いながらテレビを見る。あぁ...本当だ。速報が出ていた。夢かな?と思った。
著名人の訃報を知るたびに、驚いたり、悲しいと思ったりすることはこれまでにもあったけれど、なんといえばいいのか...自分でも驚くくらいシクシク泣いている。

子供の時分にテレビに夢中になるきっかけと沢山の面白がり方を教えてくれてありがとうございました。
コロナの収束を本当に心から願う。






posted by 見汐麻衣 at 15:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月27日

2020年3月27日(金)

今晩は。
今日はお知らせと雑記を。


今週水曜日、東京都から「今週末、不要不急の外出を控えて下さい」とのアナウンスがありました。
そのニュースを見ながら「やっと言ったぁ......」と大きな独り言。
日に日に、本当に一日一日で変化していく状況の中、生活圏内以外の行動を控え、家で過ごしています。
きっと、皆さんもそうだろうなと思います。
好きな店や場所で人と会うこと、踊りにいくこと、話す(呑む)ことが生き甲斐のような人生のワタクシとしてはこりゃたまったもんじゃないと3月上旬辺りまでは思っていましたが、うがい手洗いを習慣にしながらも、コロナについて詳しく調べ出したりしていくうちに、その生き甲斐も健康があってのことだと強く思えば尚更、家にいる事が一番じゃんと、毎晩好きなアテを作り、レコードを聴きながらの晩酌を楽しみにしています。



こんな未来イマジンできなかった頃から決まっていた今月の演奏は残り2本。
28日 土曜日、高円寺円盤にて隔月で開催している「うたう見汐麻衣」18回目。
29日 日曜日、北浦和居酒屋ちどりにて山田参助さんトリオとの2マンライブ。

まず、29日の演奏は延期になりました。改めて開催される日を待ち遠しく思っています。
さて、明日の「うたう見汐麻衣vol.18」です。こちらは開催します。
私自身の企画であり、私(うた)と塚本真一さん(ピアノ)のデュオによる1時間と10分のうたと演奏。塚本さんとの毎回異なる試み。
演奏はとても楽しみです。
いつものように「ご来場お待ちしております!」とは言いません。自身と自身の大切な人達の健康の事を考えれば(この二つを考えることはそれ以外の他人様を想うことと等しいと思っています)家にいる事が一番です。


明日、ご来場をお考えの方がいらっしゃるとすれば(あなたも私もくれぐれも予防は怠らず)
いつものようにノントークで。(生活圏内以外からの移動はノンノン!)
いつものように、まんじりともせず1時間10分を感じてください。
そしていつものごとく、終了後には蜘蛛の子を散らすように皆様、気をつけて帰って下さいね。(生活圏外への移動はノンノン!)
いつも静かで変わりなくですが、マスク必須です。私だけ、歌っているので。
いつものように、20時ちょっと過ぎにには演奏を始めます。






























posted by 見汐麻衣 at 19:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月25日

2020年3月25日(水)

「できるだけ、集わないでください」
そんな殺生な......と思っていた2月。
大変な事が起きれば「集まる」ことで緩和されるそれぞれの不安や、他者の表情を直に見て交わすコミュニケーションの大切さを痛感していた。
今回、不安で大変な時であるけれど「集う」ことが一番危険だとなると、個人個人の持つ考え方や行動が三人寄れば文殊の知恵、三本の矢ではないが、今回のこの状勢には通用しない。こんなに心細いことは正直ないです。集えば解決するということではなくてね、目に見えないものによる乱心から目に見えるようになる人様の心の持ち方。

自分もコロナにかかっているかも知れないと思って行動することを意識してからというもの「人様に迷惑をかけないようにしなさいね」と幼少の頃から教えられ、ある時からそれに反発し育った身に今、ひりひりするくらい染みる。(ここ数日の飲酒もいつもよりやけに染みる)

「なんか、この世の終わり感凄くない?」
「うちのお母さん、めっちゃテンパってた」
「ウケる」「ウケるよね」

最寄駅前でタムロする女子校生の会話を聴いて「今、そのメンタル私にも分けてくれよ!」と思いながらも
その他愛もなささえシラけて聞こえる今の気持ちを饒舌に話す言葉を持てない自分がおります。以上、雑記。




posted by 見汐麻衣 at 23:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする